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山鹿温泉元湯 さくら湯

さくら湯の歴史

九州最大。江戸期の建築様式を色濃く残す大浴場。

◆さくら湯の歴史①江戸期
藩主の休泊所として使われた「御茶屋」から歴史が始まる。

「御茶屋(おちゃや)」とは、江戸時代の藩主や幕府の役人が参勤交代などに際して休息・宿泊した施設のことです。熊本城主の肥後細川藩初代藩主・細川忠利公は山鹿の温泉がたいへん気に入り、寛永17年(1640)に御茶屋を新築しました。この御茶屋が「さくら湯の歴史の始まり」です。また、忠利公は御茶屋完成に際し、足利道鑑(第13代将軍・足利義輝の子)と剣豪 宮本武蔵を招待したことが、細川藩奉書に記録されています。

 

【山鹿町絵図(右)にみる温泉の配置】

宝暦13年(1763)に書かれた山鹿町絵図には、

「御前湯」「御次湯」「外湯」・「馬立」の表記があり、四つの構成

(うち三つは温泉)で成り立っており「御前湯」は殿様と重臣の湯。

「御次湯」は藩の家臣用。外湯は庶民用で男女混浴でした。

建物の周りには垣を回らし、御前湯・御次湯にはそれぞれ専用の門

がついていました。

 

 

◆さくら湯の歴史②明治3年~5年
地域全体が工事にかかわり、市民温泉として生まれ変わる。

外湯(庶民用の温泉)が狭く老朽化していることに心を痛めた「江上津直」

「井上甚十郎」両氏は、市民温泉としての改築に取り組みます。両氏は一千貫

(今の二億円に相当する大金)を自ら拠出して費用に充て、約2年にわたる大改修工事

が始まりました。

当時の藩知事・細川護久公は所有地からの木材や石材の切り出しを許可し、

加えて藩公所有の御茶屋・庭園などの一切を無償で提供しました。

町民も財を拠出し、筏(いかだ)による資材の運搬や、陸揚げされた木材や石材を

運ぶため「もっこ(土や砂などを運ぶ道具)」を背負った人々が列をなし、工事に

参加したと伝えられています。

また、藩知事の細川公もたびたび現場を訪れ、激励されたといわれています。

 

郡内はもちろん、菊池郡や山本郡からも多くの人々が加勢に加わり、山鹿町だけではなく、この地域全体の温泉として工事がすすめられました。そして明治5年に竣工。細川公は二人の功労を賞して、温泉の敷地すべてを与えようとされましたが、二人はこれを固辞。永久に山鹿町のものとすることを願い出てその許しを得ました。

市民温泉としてのさくら湯誕生の瞬間です。

◆さくら湯の歴史③明治31年
道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招き大改修を実施。

道後温泉の棟梁・坂本又八郎氏を招いて行った明治31年の大改修では、二階建ての休憩施設・松風館(明治35年に火災で焼失。同40年頃再建)を新築。従来の龍の湯・御次の湯の棟はそのままにして新たに「松の湯」をつくり、松の湯(一等)・紅葉湯(二等)・さくら湯(三等)とされました。この時、龍の湯は貴賓湯として特別な時のみ開く温泉として位置づけられました。

この改修では、さくら湯の浴室拡張も行われています。当時の浴室は地盤面から約2メートル下がっているため基礎を取り削る必要がある横方向への拡張は不可能。縦方向の拡張しか選択肢がないため、北側に拡張され、唐破風の玄関と更衣室の棟が追加されています。

道後温泉は正面玄関の唐破風(からはふ)が特徴的ですが、坂本又八郎氏を招いたことで、さくら湯も、どっしりとした唐破風玄関を備えることになりました。

◆さくら湯の歴史④昭和4年
南北に唐破風の玄関を持つさくら湯の全体像が完成。

さくら湯浴室を南側に拡張し、唐破風の玄関と更衣室が増築されました。

この改築により、南北に唐破風玄関を備え、「十字クロス構造」という、さくら湯最大の特徴的構造が完成します。

 

◆さくら湯の歴史⑤昭和33年
明治以来の雰囲気の喪失

さくら湯の浴槽と洗い場の床面が上げられ、浴室と更衣室の間にガラス壁と

ガラス引き戸がつき、浴槽の形の変更と浴槽内の柱が撤去されました。

松の湯と紅葉湯が改造され、松の湯が男湯、紅葉湯を女湯としました。

 

◆さくら湯の歴史⑥昭和50年
再開発ビル内へ

昭和46年8月に起きた市内中心部の大火により再開発議論が活発化。

 

 

 

 

昭和48年、大規模再開発事業によりさくら湯の解体が始まります。

昭和50年に再開発ビル(温泉プラザ山鹿)が完成し、さくら湯は

ビル内に造られました。その後、平成21年11月まで、ビル内で

営業を続けました。

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